代表の戯言

始まりG (10月18日)

従兄弟の姉さんと三宮のにしむら珈琲にて会談することになった、私と弟。
私と弟の生い立ちや、皆の人生観、その従兄弟の娘が30歳でまだ独身なので、私との結婚話になり、子供を生んだら何%の親父が生まれるか?いや親父じゃなくて祖父ができるわけやな?なんてくだらない話を続け、腹が減ったので皆で飯を食う事になって、結局計6時間ぐらいの時間を過ごしました。
その間、弟から何度も『親父の子供でよかった』って言葉があったのがうれしい。
長男、次男、三男、長女、次女、三女、四男(外)、五男(私)、六男末っ子(外)の8人兄弟(私除く)を残してくれた親父には私も感謝しています。特に私だけ一人っ子だったので、特別な思いがあります。それに私以外の兄弟は実母が存命ですが、私だけ両親を失いました。これは私が兄弟を束ねろという意味なのか?
今回親父の死がなければ出会う事がなかった兄弟、その中でも一度決別した弟との再会により、何かが動きだすような気がした。親父が必要にしてここに呼び出したような気がした。
弟いわく『あんちゃんが淋しいだろうから、しばらく大阪にいるわ〜』ということで、大阪での同居生活がはじまりました。
 

始まりF (10月12日)

告別式も同じように参列者として一番後ろに陣取り、自分の焼香順を待っていました。
その間親父との思い出や親父に対する思いで頭がぐるぐる、時折感慨深くなり瞳より涙が溢れ出しそうになりますが、『死は門出、笑顔で送りだす』というのをモットーになんとか微笑みを維持をしていました。
坊主が経を唱えるわけですが、家系がお寺関係なので、参列者特に親族関係の方々は念仏を諳んじており、経本を持ってくればよかったなんて思いました。
焼香順となりその列に並んで、いよいよ自分の番です。親族席に一礼を行い、親父の前へ。
様々な思いが込み上げて、その思いを焼香時に込めたため、誰よりも長い焼香となってしまいました。
やたら順番にこだわる弟は、俺よりも後に焼香を行うって言ってましたが、始まりは後だったけど、終わりは同時ぐらいだった。
喪主である長男と次男三男に一礼を行い最後尾に戻った。
告別式も終わり出棺です。
出棺時正直担ぎたかったけど、そこは参列者の身ですから控えて、焼き場へ向かった。
焼き場の帰りに食事、そこで昔遊んで頂いた親父の組織の方々としばし昔話を聞いたりして時間を過ごす。
その間なんか長男が我等分家衆に分骨の件でコンタクトを弟の方にとってきたらしいが、高圧的な態度だったと弟が言っていた。「まあ本家の母親の手前愛想よくはできんでしょ」諭し、時間が来たので骨拾いのお時間となりました。
本来参列者である我等が参加できるようなところではないのですが、本家母親からのダメだしもないことだし、ノコノコついていくことに。
その際綺麗な姉さん(長女)に声をかけて我等分家衆の車に同乗願うことに成功した。親父話やさっきの長男の話など話が尽きることはなく、あっという間に焼き場に着いた。
焼き場は8月ということもあり、地獄のような暑さ。いくらエアコンを入れても、炉があるフロアは外よりも暑い。焼かれ骨だけになった親父はなお熱い。
そこで一人のお姉さん(50歳ぐらい)が声をかけてきた。そう3、4年前に一度親父の育った寺に行ったことがあった。その時お会いした方だった。俺との関係は従兄弟ということになるらしい。その時はその後にある長い一日を想像すらしなかった。
骨拾いも終わり、モダン寺への帰路も姉さんと同乗することができ、たくさん話をすることができました。
寺に戻ると49日の法要を行うということで、真の親族以外がここで帰っていきます。本家母の気遣いか帰されることもなかったので、分家衆も寄らせてもらいました。
それも終わり解散となり、分家兄が鳥取に帰るということでお別れし、先ほどの従兄弟とお茶しようってことになり三宮駅前のにしむら珈琲へと向かった。
 

始まりE (09月26日)

母を亡くし、父まで今回亡くしたことで、天涯孤独?みたいな感じになってしまいましたが、忘れてはならないのが、腹違いの兄弟です。
通夜の日に始めて9人全員揃うと思うと、なんともいえない気持ちになりました。
できれば生前にそのような場があればよかったな・・・。
 
通夜では続々と参列者が集まってきます。誰が俺と親戚関係なんだろ?なんて考えてジロジロ見てしまいました。
そうこうしていると鳥取の二人兄弟が到着しました。弟の方は19歳ぐらいの時に親父に紹介されて面識があったので、会えばすぐにわかりました。一応面識のない兄の方に自己紹介して式場の最後尾に、我ら分家組みは陣取ったのでした。
 
通夜も終わり鳥取兄弟は今日の宿を決めてなかったので、大阪の家に招待することになった。
家のローカルルールで、泊まりに来た人間は皆一緒に風呂に入るというルールがあります。
普通のマンションの風呂ですが、兄弟三人で仲良くその日は風呂に入り、寝付くまで親父のこととかを語りあいました。
そこで判明したのが、どこの家の母も男は親父だけだったようで、親父以外の男を彼氏として連れてきたこともなかったようです。しかもどこの家にも(本家含)生活費というものを一切入れていないというめちゃくちゃなぶりも発覚。
どこの家も優れた母だったってことです。しかもその母達を口説き落としている親父にあっかん。
そんなこんなで面白おかしく親父の話をしながら、その日は床についた。
 

始まりD (09月16日)

大阪へ向かう道はいつもより渋滞していた。
通常40分もあれば到着できるとこだが、その日は40分の時点でまだ淀川付近・・・。
その時電話が鳴った。親父の番号からの着信。
親父が電話できるわけはないので、すぐに本家の三男であることはわかった。
今さっき親父が逝ったとのこと・・・。
おいおい、またか、また死に目に会えず仕舞いか・・・。
お袋の時もそうだった。しかも同じシチュエーションだ。
仕事でちょっと席を外した時に皆逝ってしまう。
これは俺に対して仕事に生きろということか?
すぐに西長堀インターを降りて、そのまま西長堀インターより神戸に向かう事にした。
ICUのインターホンで面会を告げると、今は機器を外しているのでしばらく待てということで、ICU入り口で待つことになった。
その間本家の母がいたので葬儀のことについてお話しました。正直あまり良い気がしない内容でしたが、本家の母なりに色々諸事情があるのは理解できるので、私は「1参列者と伺いますので安心してください。」と伝えました。
この待ち時間は非常に長く感じた。
しばらくしてまたインターホンを鳴らし、面会を促し入室することができた。
そこには全ての器具が外された親父がいた。当然アラームも鳴っていない。
横たわるベットサイドに行き、親父の顔を触った。
「親父・・・」、「・・・」、「・・・ったく自分勝手な人だな・・・」・・・・。
複雑な気持ちが交差するなか、泣きながら様々な声を掛けた。
すぐに看護婦が来て霊安室に移動するということで、親父と共に一緒に向かう。
その間、本家の長女(ちょっと前に知ったが長男と一緒にいた女性だった。詳しくはB参照)も一緒だった。
霊安室に着くと、病院と契約(?)している葬儀屋業者の方が葬儀のことは決まっているのか?とかいちいちうるさいっていうねん。
俺は本家じゃないので当然わからんし、本家の長女もその辺は把握していなかったようで、長男の方に連絡とるもなかなか連絡がつかずで、返答に困っていました。それを何度もせかすように聞いてくる業者に苛立ちを覚えた。
霊安室から業者がいなくなったので、鳥取の兄弟の話をしたところ、長女はまったく知らなかったようで、まさにサプライズ!
姉ちゃんからすれば、なにそれ〜?みたいな・・・。
そうは言っても居るもんは居るし、なんとか連絡を取らなければならないので、三男に連絡をしてもらえるようにしました。
そうこうしているうちに長男が経営する霊柩車が迎えに来て、本家に親父を連れて行くのでここでお別れとなりました。
通夜、告別式の日時が決まったら三男より連絡をもらう約束をし大阪に向かった。
 

始まりC (09月11日)

朝、親父のICUに行くと、昨日よりも容態が悪いようで、様々な警告アラームが鳴りっぱなしでした。軽くヒーリングを施しランチへ向かった。
ランチ後、病院に向かうとき、辺に胃の辺りが苦しくなり、親父が死んでしまう想像が頭をよぎった・・・・。
ランチにコッテリしたフレンチを食ったせいか、胸焼けかな?とポジティブに考えるようにした。
容態が少しでもよくなるように願いつつ、また親父の元にいったがあまり変化が感じなれない。
アラームがあまりに止むことがないので、前を通りかかった医者が様子をみにベットサイドまできた、そこで心配なのですこし聞いてみた
『まだ脳波等の検査もしていないのでその検査はいつできそうか?』とかの話しをしたが、今の容態だと検査すらできない状態なので、それを安定させるためにいまやっているとのこと。
ということはすぐに逝ってしまうってことはないなと判断し、ここ数日病院の近所で寝泊りで、店のことは現場に任せていたが、さすがに心配なのもあり、
親父に『仕事いってくるわ』っていって大阪に向かった。
 

始まりB (08月29日)

容態に変化があったのか、その日はICUの親父の部屋には新しい機械が増えていた。
人工透析機であった。とりあえずこれで今日のところは命が留めることができたようです。
しかし本家の三男からは延命治療を行うことはないと聞かされていたので、このまま回復の方向に向かなければ、一週間とない命。
その事を伝えるべく鳥取の腹違いの二人兄弟に連絡を取ろうと、弟の携帯に電話するが、お客様の都合により繋がらない・・・・。
最悪本家の三男が鳥取の長男の連絡先を知っているみたいなのでその時頼もう。
とにかく今はヒーリングを行い、意識が戻ってくることを祈るしかないと思い、ひたすら手をかざし、手のひらに意識を集中していた。
そうこうしていると、処置のために看護婦が現れるわけだが、そのたびにちょっと変な目で見られる・・・・。
ICUには綺麗な人が多く、親父に向かって綺麗なお姉さんが来たよ。と言ってすこし気分転換をして時間を過ごす。
本家の方は家族待合室にいるらしく、時々面会に訪れる。
綺麗な女性を連れた40前後の男性が登場した、おそらく長男夫婦かな?初めてお目にかかるんですが、自己紹介するような雰囲気でもないので、軽く会釈をして入れ替わるように病室を後にした。
 

始まりA (08月27日)

初日は明け方に病院に行ったため、朝にそこを後にした。
時間つぶしの為に夕方まで神戸の友人宅へ。
夕方に病院に戻るとそこには初めてお目にかかるお姉様二人と本家のお母さんが!!
親父を挟んで微妙な距離感・・・・・。
そらお姉さん方は私のことは他の兄から噂程度にしか聞いてないみたいですし、本家母にいたっては、私が幼稚園児ぐらいのときに、親父が東京女子医大に入院中お見舞いに訪れていた本家母の居る前で、見知らぬ幼稚園児が『お父さん!!』と駆け寄ったらしくそこで初めて隠し子発覚となったわけです。本家母はさぞショックだったでしょう。それが今まさにあの時と同じように病院で『親父!』と言っているわけですから。心中穏やかではないのは明らかです。
後で人に聞いた話ですが、その隠し子発覚時に本家母は子供達と一緒に無理心中をも頭によぎったらしいです。それだけ真面目な方なんでしょう。
一方親父は今朝の様子と大して変わらず、意識不明の状態。このまま状態が良くならなければ、今日で臨終ということになります。
なぜなら普段より週3回人口透析を行わなければならない身体、運ばれた当日は透析を行う日でもありました。このまま透析を行わなければ生命維持装置をつけていたとしても今日明日で臨終というわけです。
 

始まり@ (08月12日)

深夜突然知らない番号から携帯に着信、基本的に登録されていない番号からの電話はでない私ですが、078・・・神戸の方・・・。
腹違いの本家の三男からの電話だった。
親父が倒れ神大病院へ運ばれたとのこと。母親が亡くなった病院、すこし嫌な感じがしたが、過去何度も死に掛けた親父のことだから今回も奇跡が起こるかも?なんてそのときは考えていた。
すぐに用意し病院に着いたのが午前6時前、集中治療室ということだけ聞いていたので、そこに向かうが受付もなく、どこにも入り口が見当たらない。
しばらく集中治療室の入り口らしきところで待機していると、ナース?が通ったので入り方を聞くが、そこのインターホンで聞いてくれと不親切な対応をされた。
インターホンで尋ねると、今度は面会時間前ということでウダウダいっていたが、運ばれたばかりということも配慮してか入り口の鍵を開けてくれた。そこを通過すると別の部屋があり、手洗い消毒場でそこで手洗いする指示が掲示されている。
そこから先へ進むと大きな自動ドアがあった。開け方がまったくわからず、5分ぐらいそこで格闘するがあかない。
仕方が無いので廊下にあったインターホンにて指示をもらおうと電話したが、繋がる場所が違ったのか話が通ってなく患者の確認からなにから説明しなおして、結局一度外に出て最初に電話したインターホンより指示を受けてくれとのこと・・・。
結局入り口まで迎えにきてもらうことになった。
集中治療室に入ると、そこはオープンな病室で、どこの部屋も機械がたくさんあり、様々なアラームが鳴っていた。
親父の部屋に入ると、人口呼吸器や心電図、様々な点滴類が繋がっている状態でした。
ナースの話ではそれらの機械がないと息絶えてしまうようです。
なぜそのような危篤状態になったかというと、心不全により心停止状態となり、蘇生が成功したのが、心停止より40分経った後、それだけの間心停止だと脳への影響があり、すでに脳死状態となっていたわけです。
それでも奇跡を信じて親父の顔に手を当てて、ヒーリングを数時間施してその日は病室を後にした。
 

やりすぎました・・・。 (06月30日)

最近美容師にいくことがなく、自分で坊主頭にしています。
一番の難関が襟の辺りのやわらかい毛です。ここはアタッチメントをつけた状態だとどうやってもうまく刈ることができません。
そこでアタッチメントを外して、慎重に刈っていくわけですが、6割ぐらいの確立で失敗します。
失敗するとどうなるかと申しますと、襟の当たりがパッツンと段差ができてしまうわけです。その段ができると少しずつ段差をごまかす為にアタッチメントを外した状態で調整していくわけです。
これが失敗すると段差が後頭部まで進行していきます。
こうなると手がつけれなくなります。そうです。全部ノーアタッチメントでマルコメ君状態となってしまうわけです。
それを昨日やってしまいました・・・・・。
まるでスキンヘッドです。
これではお客様の前に出る事ができないので、明日カツラ屋さんに行こうと思います。
代表の戯言を読んだ旨を店頭をおっしゃって頂ければ、今ならツルツル代表をお披露目させて頂きます。
おそらく一週間の命でしょう。
 

失ってみて初めてわかる大切さ (04月11日)

どんなものでもあるのが当たり前になってしまうと、その大切さというのがわからなくなるものです。
4月6日にその当たり前のものを失ってしまいました・・・。
最初実感無かったけど、その夜にじんわりきました。
 
初めて君を知ったのは、プレステのグランツーリスモだったね。
俺はゲーム上のスペックだけで君に惚れた。
初代は兵庫ダイハツの一番目の出荷だったらしい。
しばらくどノーマルで2年間大事に乗っていたが、足回りに不満を感じヤフオクでDRSショックを落札することになった。このときの出品者が杉尾ガレージでした。
足をそこでつけてもらい、しばらくして杉尾ガレージより阪下でのダート練習に誘われ参加した。
初めてのダート走行、タイヤはブロックパターンであればよいと思って、スタッドレス。土の感触が楽しく、調子に乗って何度も走りまわった。最後の一本で悲劇が起きた。スタッドレスは耐久性がなかった。ずるずるになって制御不能で土手に向かっていった。横転・・・・・。
総走行1万5千ほど、まだ新車の香りがした君を一瞬にして廃車にしてしまったね。
二代目の君は愛知県出身だった。中古で探した君はずいぶんくたびれていたね。初代のエンジンと比べると、まったくパワーがなく悲しい思いをしたよ。
そんな状態ではあったけど、ロールゲージやアンダーダード、足回りと一通りダート仕様にモデファイし、みゆのM字開脚のラッピングを施し、正式に近畿ジュニア戦に参戦。年間2位をゲットしたね。シーズン後、杉尾ガレージにてメンテしてもらって車両を引き取り、帰りがけの高速でのテスト走行でエンジンブローさせちゃったね。そのエンジンブローに伴い、初代のエンジンに載せ替えを行い君は生まれ変わった。そう思うと初代のエンジンは私の知りうるストーリアの中で一番の当りエンジンだったよ。
参戦二年目は全戦優勝のパーフェクトチャンプをプレゼントしてくれたし、よくがんばってくれたよ。去年の年末に君を引き取りたいという方がいてお別れしたね。
三代目の君は昔から顔見知りではあったんだよね。
杉尾が全日本で使っていた車両だから君の助手席に乗ったことも数回あった。
君はとにかくパワフルで身体も硬くてガチガチな印象だった。
今年のチャンピオン戦第一戦で初めて君に乗ったんだけど、初めてということもあり上手に操れなかった。練習の為阪下に二回一緒にいったね。そのときはまだタコメータとシフトランプをつけてなくて、二戦目の前日に付けたね。本番当日シフトランプの影響か、今までの印象とは全く違ったよ。めっちゃパワー出て、一本目なんてフラフラだったね。なんとか君の本性もわかって乗り方がわかった。一本目は勝手にミスコースだと思い込んで後半コースの下見的なちんたら運転してごめんね。しかもどうでもよくてパイロンタッチまでしちゃってさ。あのパイロンタッチしなかったらトップタイムだったよ。
そのタイムを知って、今日は絶対優勝できるって確信したね。その確信が気負いになっちゃったのかな?二本目スタートして10秒も経たず横転しちゃった。
しかも初代が横転したコーナーと同じところ。下りと上りの差はあったけど、まるっきり同じところ。
前回まで丸三年間はラリー車保険を掛けてきたけど、3年間使う機会もなかったし、大丈夫だろうと初めて保険を辞めたとたん君は横転してしまった。運命とはそういうものだと君に気付かされた。
 
ストーリアX4は初めて買った車。初めての新車、初めてのMT、初めての競技車、初めてのエアコンレス車、初めてのターボ車、初めての・・・・。
数え切れないほど駆動系を壊し、修理代だけで新車を余裕で買えるぐらい費やした。
様々な初めて、そしていつも傍にいてくれた車。君が傍にいてくれることはまるで空気のようで、ありがたみに気付かなかったよ。
失ってみて初めて気付いた大切さ。
 
君が好きだからダートラを始めて、ダートラを好きになった。君がいないダートラは餡子のない鯛焼きみたいなものだ。
 
もう一度一緒に復活しよう!
 

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